Tuesday, October 12, 2010
茴香豆の茴の字
さて孔乙己はお碗に半分ほど酒飲むうちに、赤くなった顔がだんだん元に復して来たので、側(そば)にいた人はまたもやひやかし始めた。 「孔乙己、お前は本当に字が読めるのかえ」 孔乙己は弁解するだけ阿呆らしいという顔付で、その人を眺めていると、彼等はすぐに言葉を添えた。 「お前はどうして半人前の秀才にもなれないのだろう」 この言葉は孔乙己にとっては大禁物で、たちまち不安に堪えられぬ憂鬱な状態を現わし、顔全体が灰色に覆われ、口から出る言葉は今度こそソックリ丸出しの「之乎者也(ツーフーツエイエ)」だから、こればかりは誰だって解るはずがない。一同はこの時どっと笑い出し、店の内外はとても晴れやかな空気になるのが常であった。 この場合わたしが一緒になって笑っても番頭さんは決して咎めないし、その上番頭さん自身がいつもこういう問題を持出し、人の笑いを誘い出すので、孔乙己は仲間脱(なかまはず)れになるより仕方がない。そういう時にはいつも子供を相手にして話しかける。一度わたしに話しかけたことがあった。 「お前は本が読めるかえ」 「…………」 「本が読めるなら乃公が試験してやろう。茴香豆の茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」 わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向(そむ)けていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。 「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」 わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって 「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」 孔乙己は俄に元気づき、爪先きで櫃台(デスク)を弾(はじ)きながら大きくうなずいて 「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」 彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。 またたびたび左(さ)のようなことがあった。騒々しい笑声が起ると、子供等はどこからとなく集(あつま)って来て孔乙己を取囲む。その時茴香豆は彼の手から一つ一つ子供等に分配され、子供等はそれを食べてしまったあとでもなお囲みを解かず、小さな眼を皿の中に萃(あつ)めていると、彼は急に五指をひろげて皿を覆い、背を丸くして 「たくさん無いよ。わしはもうたくさん持ってないよ」 というかと思うとたちまち身を起し 「多からず、多からず、多乎哉(おおからんや)多からざる也」 と首を左右に振っているので、子供等はキャッキャッと笑い出し、ちりぢりに別れゆくのである。
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