Tuesday, October 12, 2010

政治資金規正法

国民の皆さんの昨年の暑い夏の戦い、その結果、日本の政治の歴史は大きく変わりました。それは、国民の皆さんの判断は決して間違っていなかった。私は今でもそう確信をしています。若いすばらしい国会議員がすくすくと育ち、国会の中で活動を始めてくれています。それも、国民の皆さんの判断のおかげでございます。政権交代によって、国民の皆さんのお暮らしが必ず良くなる。その確信のもとで皆さん方がお選びいただき、私は総理大臣として、今日までその職を行ってまいりました。皆さんと協力して日本の歴史を変えよう、官僚任せの政治を変えよう、政治主導、国民の皆さんが、主役になる政治をつくろう。そのように思いながら、今日まで頑張ってきたつもりでございます。私はきょう、お集まりの国会議員の皆さんと一緒に、国民のための予算を成立させることができた。そのことを誇りに思っています。ご案内の通り、子ども手当もスタートいたしました。高校の無償化も始まっています。子どもに優しい、未来に魅力のある日本に変えていこう、その私たちの判断は、決して間違っていない。そう確信をしています。産業を活性化させなきゃならない。特に1次産業が厳しい。農業を一生懸命やっておられる方々の個別所得保障制度、お米からではありますが、スタートさせていくこともできています。そのことによって、1次産業がさらに、2次産業、3次産業と合わせて、独自産業として大いに再生される日も近い、私はそのようにも確信しています。さまざまな変化が国民の暮らしの中で起きています。水俣病もそうです。さらには、医療崩壊が始まっている地域の医療をなんとかしなきゃいけない。厳しい予算の中で、医療費用をわずかですが、増やすことができたのも、国民の皆さんの意思だと、私はそのように思っています。これからもっともっと、人の命を大切にする政治、進めていかなければなりません。ただ残念なことに、そのような私たち、政権与党のしっかりとした仕事が、必ずしも国民の皆さんの心に映っていません。国民の皆さんが、徐々に徐々に聞く耳を持たなくなってきてしまった。そのことは残念でなりませんし、まさにそれは、私の不徳の致すところ。そのように思っています。その原因、2つだけ申し上げます。やはりその1つは、普天間の問題でありましょう。沖縄の皆さんも徳之島の皆さんにも、ご迷惑をおかけしています。ただ、私は本当に、沖縄の外に米軍の基地をできるかぎり移すために努力をしなきゃいけないと。今までのように、沖縄の中に基地を求めることが当たり前じゃないだろう。その思いで半年間、努力をしてまいりましたが、結果として、県外にはなかなか届きませんでした。これからも、県外にできるかぎり、彼らの仕事を外に移すように、努力をしてまいることはいうまでもありませんが、一方で、北朝鮮が韓国の哨戒艦を魚雷で沈没させるという事案も起きています。北東アジアは、必ずしも安全安心が確保されている状況ではありません。その中で、日米が信頼関係を保つということが、日本だけでなく、東アジアの平和と安定のために、不可欠なんだと。その思いのもとで、残念ながら、沖縄にご負担をお願いせざるを得なくなりました。そのことで、沖縄の皆さまにもご迷惑をおかけしています。そして特に、社民党さんに政権離脱という、厳しい思いをお与えしてしまったことを残念でなりません。ただ皆さん、私もこれからも、社民党さんとはさまざま、国民新党さんとも共にはありますが、一緒に今まで仕事をさせていただいてきた。これからもできるかぎりの協力を、お願いを申し上げてまいりたい。さらに、沖縄の皆さん方にも、これからもできるかぎり、県外に米軍の基地というものを少しずつでも、移すことができるように、新しい政権としては努力を重ねていくことは、何より大切だと思ってます。社民党より、日米を重視した。けしからん。その気持ちもわからないでもありません。でもどうぞ、社民党さんとも協力関係を模索していきながら、今ここはやはり、日米の信頼関係を何としても、維持させていかなきゃならないという悲痛な思い、ご理解を願いたいと思っています。私は、つまるところ、日本の平和、日本人自身でつくりあげていくときを、いつかは求めなきゃならないと思っています。アメリカに依存し続ける安全保障、これから50年、100年、続けていいとは思いません。そこのところもぜひ皆さん、ご理解いただいて、だから鳩山が何としても、少しでも県外にと思ってきた。その思い、ご理解を願えればと思っています。その中に、私は、今回の普天間の本質が宿っている。そのように思っています。いつか、私の時代は無理でありますが、あなた方の時代に、日本の平和をもっと日本人自身で、しっかりと、見つめあげていくことができるような、そんな環境をつくること。現在の日米の同盟の重要性はいうまでもありませんが、一方で、そのことも、模索をしていただきたい。私はその確信の中で、しかし、社民党さんを政権離脱という、大変厳しい道に追い込んでしまった。その責任は取らなければならない。そのように感じております。今1つは、やはり、政治とカネの問題でありました。そもそも私が、自民党を飛び出して、さきがけ、さらには民主党をつくりあげてまいりましたのも、自民党政治ではだめだ。もっとお金にクリーンな政権をつくらなければ、国民の皆さん、政権に対して決して好意を持ってくれない。なんとしても、クリーンな政治を取り戻そうではないか。その思いでございました。それが結果として、自分自身が政治資金規正法違反の元秘書を抱えていたなどということが、私自身、まったく想像だにしておりませんでした。そしてそのことが、きょうご来会の議員の皆様方に、大変なご迷惑をおかけしてしまったことを、本当に申し訳なく。何でクリーンであるはずの民主党の、しかも代表がこんな事件に巻き込まれるのか。皆さんもさぞご苦労され、お怒りになったことだと思います。私はそのような政治とカネに決別させる民主党を取り戻したいと思っています。皆さん、いかがでしょうか。このことで、私自身もこの職を引かせていただくことになりますが、この問題は、小沢幹事長にも政治資金規正法の議論があったことも皆様方、承知のことでございます。先般、2度ほど幹事長ともご相談を申し上げながら、私も引きます。しかし、幹事長も恐縮ですが、幹事長の職を引いていただきたい。そのことによって、新しい民主党、よりクリーンな民主党をつくり上げることができると、そのように申し上げました。幹事長もわかったと、そのように申されたのでございます。決して受動的という話ではありません。お互いにその責めを果たさなくてはならない。重ねて申しあげたいと思いますが、きょうも見えております小林 千代美議員にも、その責めをぜひ負っていただきたい。誠にこの高い壇上から申し上げるのも恐縮でありますが、私たち民主党を再生させていくためには、とことんクリーンな民主党に戻そうじゃありませんか、皆さん。そのためのご協力をよろしくお願いいたします。

新しい政権

これからもできるかぎりの協力を、お願いを申し上げてまいりたい。さらに、沖縄の皆さん方にも、これからもできるかぎり、県外に米軍の基地というものを少しずつでも、移すことができるように、新しい政権としては努力を重ねていくことは、何より大切だと思ってます。社民党より、日米を重視した。けしからん。その気持ちもわからないでもありません。でもどうぞ、社民党さんとも協力関係を模索していきながら、今ここはやはり、日米の信頼関係を何としても、維持させていかなきゃならないという悲痛な思い、ご理解を願いたいと思っています。私は、つまるところ、日本の平和、日本人自身でつくりあげていくときを、いつかは求めなきゃならないと思っています。アメリカに依存し続ける安全保障、これから50年、100年、続けていいとは思いません。そこのところもぜひ皆さん、ご理解いただいて、だから鳩山が何としても、少しでも県外にと思ってきた。その思い、ご理解を願えればと思っています。その中に、私は、今回の普天間の本質が宿っている。そのように思っています。いつか、私の時代は無理でありますが、あなた方の時代に、日本の平和をもっと日本人自身で、しっかりと、見つめあげていくことができるような、そんな環境をつくること。現在の日米の同盟の重要性はいうまでもありませんが、一方で、そのことも、模索をしていただきたい。私はその確信の中で、しかし、社民党さんを政権離脱という、大変厳しい道に追い込んでしまった。その責任は取らなければならない。そのように感じております。

哨戒艦

厳しい予算の中で、医療費用をわずかですが、増やすことができたのも、国民の皆さんの意思だと、私はそのように思っています。これからもっともっと、人の命を大切にする政治、進めていかなければなりません。ただ残念なことに、そのような私たち、政権与党のしっかりとした仕事が、必ずしも国民の皆さんの心に映っていません。国民の皆さんが、徐々に徐々に聞く耳を持たなくなってきてしまった。そのことは残念でなりませんし、まさにそれは、私の不徳の致すところ。そのように思っています。その原因、2つだけ申し上げます。やはりその1つは、普天間の問題でありましょう。沖縄の皆さんも徳之島の皆さんにも、ご迷惑をおかけしています。ただ、私は本当に、沖縄の外に米軍の基地をできるかぎり移すために努力をしなきゃいけないと。今までのように、沖縄の中に基地を求めることが当たり前じゃないだろう。その思いで半年間、努力をしてまいりましたが、結果として、県外にはなかなか届きませんでした。これからも、県外にできるかぎり、彼らの仕事を外に移すように、努力をしてまいることはいうまでもありませんが、一方で、北朝鮮が韓国の哨戒艦を魚雷で沈没させるという事案も起きています。北東アジアは、必ずしも安全安心が確保されている状況ではありません。その中で、日米が信頼関係を保つということが、日本だけでなく、東アジアの平和と安定のために、不可欠なんだと。その思いのもとで、残念ながら、沖縄にご負担をお願いせざるを得なくなりました。そのことで、沖縄の皆さまにもご迷惑をおかけしています。そして特に、社民党さんに政権離脱という、厳しい思いをお与えしてしまったことを残念でなりません。ただ皆さん、私もこれからも、社民党さんとはさまざま、国民新党さんとも共にはありますが、一緒に今まで仕事をさせていただいてきた。

鸠山由纪夫

国民の皆さんの昨年の暑い夏の戦い、その結果、日本の政治の歴史は大きく変わりました。それは、国民の皆さんの判断は決して間違っていなかった。私は今でもそう確信をしています。若いすばらしい国会議員がすくすくと育ち、国会の中で活動を始めてくれています。それも、国民の皆さんの判断のおかげでございます。政権交代によって、国民の皆さんのお暮らしが必ず良くなる。その確信のもとで皆さん方がお選びいただき、私は総理大臣として、今日までその職を行ってまいりました。皆さんと協力して日本の歴史を変えよう、官僚任せの政治を変えよう、政治主導、国民の皆さんが、主役になる政治をつくろう。そのように思いながら、今日まで頑張ってきたつもりでございます。私はきょう、お集まりの国会議員の皆さんと一緒に、国民のための予算を成立させることができた。そのことを誇りに思っています。ご案内の通り、子ども手当もスタートいたしました。高校の無償化も始まっています。子どもに優しい、未来に魅力のある日本に変えていこう、その私たちの判断は、決して間違っていない。そう確信をしています。産業を活性化させなきゃならない。特に1次産業が厳しい。農業を一生懸命やっておられる方々の個別所得保障制度、お米からではありますが、スタートさせていくこともできています。そのことによって、1次産業がさらに、2次産業、3次産業と合わせて、独自産業として大いに再生される日も近い、私はそのようにも確信しています。さまざまな変化が国民の暮らしの中で起きています。水俣病もそうです。さらには、医療崩壊が始まっている地域の医療をなんとかしなきゃいけない。

中秋節

中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくなり、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入(わたいれ)を著て丸一日火の側(そば)にいて、午後からたった一人の客ぐらいでは(まぶた)がだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで  「一杯燗けてくれ」  という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台の下の閾(しきい)の上に孔乙己が坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄(みすぼ)らしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラを敷いて、肩から縄で吊りかけてある。  「酒を一杯燗けてくれ」  番頭さんも延び上って見て  「おお孔乙己か、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」  孔乙己はとても見惨(みじめ)な様子で仰向いて答えた。  「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」  番頭さんは例のひやかし口調で  「孔乙己、またやったな」  今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一言(ごん)  「ひやかしちゃいけない」  というのみであった。  「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」   孔乙己は低い声で  「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」  この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。  わたしは燗した酒を運び出し、閾の上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆(みな)の笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。  それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。  「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」  次の年の端午の節句にも言った。  「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」  中秋節にはもうなんにも言わなくなった。  それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。  たぶん孔乙己は死んだに違いない。

腿の骨

こういう風に孔乙己はいつも人を愉快ならしめているが、自分は決してそうあろうはずがない。ほかの人だったらどうだろう。こうしていられるか。  ある日のことである。おおかた中秋節の二三日前だったろうと思う。番頭さんはぶらりぶらりと帳〆めに掛り、黒板を取卸して、たちまち大声を出した。  「孔乙己はしばらく出て来ないが、まだ十九銭残っているよ」  そこでわたしもしばらく彼の見えないことを思い出したが、側(そば)に酒飲んでいる人が  「あいつは来るはずがない。腿の骨をぶっ挫いちゃったんだ」  「ええ、何だと」  「相変らず泥棒していたんだ。今度はあいつも眼が眩んだね。ところもあろうに丁挙人(ていきょじん)の家(うち)に入ったんだから、な。あすこの品物が盗み出せると思うか」  「そうしてどうした」  「どうしたッて? 謝罪状を書くより外(ほか)はあるめえ。書いたあとで叩かれ、夜中まで叩かれどおしで、もう一度叩かれたら、ポキリと言って腿の骨が折れてしまった」  「それからどうした」  「それから腿が折れたんだ」  「折れてからどうした」  「どうしたか解るものか。たぶん死んだろう」   番頭はその上訊こうともせず、 のらりくらりと彼の帳合を続けていた。

茴香豆の茴の字

さて孔乙己はお碗に半分ほど酒飲むうちに、赤くなった顔がだんだん元に復して来たので、側(そば)にいた人はまたもやひやかし始めた。  「孔乙己、お前は本当に字が読めるのかえ」  孔乙己は弁解するだけ阿呆らしいという顔付で、その人を眺めていると、彼等はすぐに言葉を添えた。  「お前はどうして半人前の秀才にもなれないのだろう」  この言葉は孔乙己にとっては大禁物で、たちまち不安に堪えられぬ憂鬱な状態を現わし、顔全体が灰色に覆われ、口から出る言葉は今度こそソックリ丸出しの「之乎者也(ツーフーツエイエ)」だから、こればかりは誰だって解るはずがない。一同はこの時どっと笑い出し、店の内外はとても晴れやかな空気になるのが常であった。   この場合わたしが一緒になって笑っても番頭さんは決して咎めないし、その上番頭さん自身がいつもこういう問題を持出し、人の笑いを誘い出すので、孔乙己は仲間脱(なかまはず)れになるより仕方がない。そういう時にはいつも子供を相手にして話しかける。一度わたしに話しかけたことがあった。  「お前は本が読めるかえ」  「…………」  「本が読めるなら乃公が試験してやろう。茴香豆の茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」  わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向(そむ)けていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。  「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」  わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって  「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」  孔乙己は俄に元気づき、爪先きで櫃台(デスク)を弾(はじ)きながら大きくうなずいて  「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」  彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。  またたびたび左(さ)のようなことがあった。騒々しい笑声が起ると、子供等はどこからとなく集(あつま)って来て孔乙己を取囲む。その時茴香豆は彼の手から一つ一つ子供等に分配され、子供等はそれを食べてしまったあとでもなお囲みを解かず、小さな眼を皿の中に萃(あつ)めていると、彼は急に五指をひろげて皿を覆い、背を丸くして  「たくさん無いよ。わしはもうたくさん持ってないよ」  というかと思うとたちまち身を起し   「多からず、多からず、多乎哉(おおからんや)多からざる也」  と首を左右に振っているので、子供等はキャッキャッと笑い出し、ちりぢりに別れゆくのである。